グループ元氣招会とは

はじめに

現、今橋農園 元氣招会は、平成26年に解散したグループ元氣招会(元氣招会の名前で活動していたものの、現今橋農園 元氣招会と区別するため、グループ元氣招会と呼称します)の志と栽培法を引き継いでいます。その理由から、ここでは、グループ元氣招会の代表を務めていた、2代目今橋 道夫が、かつてを振り返り、その志と主なできごと、感じていたことなどを、ノンフィクション物語として、公表させていただきました。少し長い内容ですが、ご一読いただけると幸いです。

設立と会の名称の意味

元氣招会は1989年(平成元年)、自分たちで生産した無農薬栽培米や低農薬栽培米を年間契約をいただいたお客様に販売するために、志をを同じくする農家5戸で設立しました。
元氣招会は「ゲンキショウカイ」と発音しますが、会の名称は文字通り「元気を招く会」を圧縮したもので、その意味するところは、次のように三つありました。(順不同です)

  • 農薬や化学肥料を減らして、生産者の健康を守り、家族全体で元気に生活すること
  • そこから生産された農産物で消費者の健康を守り、元気になっていただくこと
  • 私たちが先導して地域に新しい風を吹かせ、地域全体を活性化させ農業を元気にすること

何とも壮大なものでしたが、今振り返ってみると、
生産者会員では、これまで携わってきた8戸の農家とも、皆さん元気で現役農家か後継者に譲っているようなので、まあ達成したと言えるようです。
消費者の健康を守れたかは、お客様には本当に数多くの方がいらっしゃって、2番目の内容が実現されたか、はっきりしたことはわからないものの、現在の今橋農園元氣招会でご継続いただいているのお客様のうち、平成元年から29年間もずっと続けていただいているお客様(ご家族の関係者様含め)が、全体のお客様の半数近くを占めていて、時々、『げんき米のおかげで、これまで家族全員元気な生活ができ、感謝しています』といったありがたい言葉をいただくので、概ね実現できているような気がします。
最後の地域に対する働きかけの点では、元氣招会発足以来、地域農家の中で、消費者と直に接する農家が生まれ、女性の社会進出もあることから、元氣招会だけの功績とは言えないものの、口火を切らせていただいたことは何らかの貢献があるのではないかと感じています。それらの動きが、農協に波及し、生協とのタイアップなどにもつながっているのかもしれないと考えています。
ともあれ、3つの壮大な目標は、何らかの合格点くらいはいただけるのでないかと自負しているところです。

グループ元氣招会を設立した理由

無農薬や低農薬栽培した農産物を直接消費者にお届けするということは、別に今では珍しいことではありません。有機農産物なども手軽にスーパーで手に入る時代となりました。しかし、今から30年近い時代には、極めて珍しいことでした。そのような時代に、何故、元氣招会設立メンバーは、グループ元氣招会を立ち上げ、『消費者と顔の見える関係』を築こうとしたかにはいくつかの時代的背景がありました。その理由をいくつかご紹介します。

  • 今から昭和57年前後(35年前)から、通常の防除では防ぎきれない害虫被害が出て、水稲農家は甚大な被害を被り、それにより、指導機関は農薬散布回数を増やす指導を始め、青年農家として不安を覚えたこと。
  • 米アレルギーを持つ子供たちが出始め、米農家として疑問に思い、その子供たちが食べることのできるお米を生産できないかと考えたこと。
  • 昭和62年(1987年)、それまでお米の全量を国が買ってきた、食糧管理法を一部改正し、消費者と契約した無農薬米等は農家が直接販売できるという制度改正があり、近隣でもそれに取り組みを始めた農家グループがあり、自分たちも新しい農業を始めたいという意気込みがあったこと。

議論の積み重ねと行動、お世話になった方々

昭和の終わりの頃、私を含め、元氣招会の設立メンバーは峰延農協青年部に所属し、活発に勉強会などを行っていました。その役員もさせて頂いた中で、上記のような問題点や新たな動きが30代の私たちに、何かをしなくてはという空気が醸し出されていました。とはいえ、後述するように、食糧管理法で守られた稲作社会でその枠から外れて、新たな取り組みをするというのは度胸のいることでした。躊躇している私たちに、後述する農業技術者S氏が、私たちの背中を押してくれたことは、本当にありがたいごとでした。S氏は、議論を「ふっかけてくる」ような方で、『あなたがたは、このままの農業を続けるの?おんなじ事をずっとやっていくの?』といったことを私たちに熱っぽく語りかけてくるので、私たちは、あおられるように深夜、いえ夜が明けるまで話し合ったことは一度ばかりか、何度もありました。予断ですが、当時の農協の出入りは今ほど厳重でなかったので、朝帰えりで農協を出たところで、農協の女子職員と鉢合わせになり、苦笑いしながら『おはようございます』と言って帰ってきたことが何度もりました。議論というのはすればするほど煮詰まってくるものです。そして、行動してみようということになり、まず、お隣の岩見沢にある農業試験場に害虫の勉強をするため行くことになりました。アポイントは北海道立の元農業普及所長さんの肩書きでS氏がとってくれ、最大の害虫カメムシの勉強をさせていただきました。農薬を使うための研究ながら、裏を返すと減農薬になる。そのことを私は後で知ることになります。

次に向かったのは、札幌のアレルギークリニックとアレルギー対策用のショップでした。クリニックの先生から、食アレルギーの大変さと食べ物の大切さ、特に患者には農薬や添加物の少ない食べ物が良いと教えられ、当地で活動していた、空知アレルギーの子を持つ親の会・ピーターパンを紹介していただきました。そして、お隣のショップでは、深刻そうな表情をしていた親御さんが「あわ、きび」などの高価な非アレルギー食材を買い求めているのに、食アレルギーの深刻さを実感、自分たちが何かできないかと強く感じて帰ってきたのを覚えています。

次に、肝心の契約してくれるお客様捜しです。自分たちで、どのようにお客様にお願いしていくか議論していく中で出てきたのが、上記アレルギー関連団体のピーターパンと地元の消費者協会でした。しかし、地元の美唄消費者協会に行くと、『私たちは既に別な農家グループと契約しているので、お隣の岩見沢消費者協会にお願いしてみれば』ということで、生産者に岩見沢市に属している会員が一人いるという理由をつけて、岩見沢消費者協会へ向かいました。事務室に案内され、私たちの考えていること、行おうとしていることを、私からたどたどしく説明させていただきました。断られるいに違いないと思っていた私たちに、代表のFさんは『私たちは地元の(別な農協)に安全安心な農産物を販売して下さいとお願いしても、中々聞いてくれないのです。それなのに、あなた方は、自分たちで私たちのところまで来ていただいてくれ、本当にうれしいことです。早速、役員会で協議し、協会で契約者をまとめたいです。』という、ありがい言葉を頂戴しました。この時は、自分たちが行動しなければ何も生まれないということを痛切に感じた次第です。

情熱の農業技術者S氏は元氣招会の起動を見届けるかのかのように、彼の地に旅立たれ、そして消費者協会の会長Fさんは、つい先日黄泉の国に去っていきました。
元氣招会には生産者とお客様以外に、実に多くの方々から有形無形のご支援をいただいてきましたが、S氏とFさんには、どうお礼を言ってよいかわからないほど、お世話になりましたし、勉強もさせていただきました。この場を借りて、お二人のご冥福をお祈りする次第です。

技術的な面では、北海道の芦別市で有機農業をされていたT氏に土作りを教わりました。T氏は、わざわざ当地まで来ていただき、発酵有機肥料、いわゆる”ぼかし肥料”の作り方を講義と実践で教えていただきました。この肥料の作り方は、形こそ少し変わったものの、現在に引き継がれていて、T氏にも大変お世話になり、感謝している次第です。

 

 

 

特別栽培米制度と、ご協力いただいた方々について

当時は、生産者がお米を合法的に販売するには、国の認めた「特別栽培米制度」(以下特栽米)を利用する必要がありました。その書類は膨大で、全ての契約者の世帯名簿を生年月日つきでいただき、一覧表を作成、契約書を作成し、お客様の中から代表者数名をお願いし押印していただく必要がありました。それら書類の厚さは数センチあったと思います。家族のお名前とか誕生日とか、重要な個人情報をお客様からお預かりするなど今では考えられないことですが、国(農林水産省)の求めるところは厳しいものがありました。

幸い、当時ご契約いただいた、「岩見沢消費者協会」の会員の方々、「空知アレルギーの子を持つ親の会・ピーターパン」の方々、そして「三笠健康を造る会」の皆様は快く、私たちのお客様になっていただき、面倒なお願いにも快く対応していただきました。

まだまだ面倒なことは続きます。当時認められた栽培法は原則、無農薬・無化学肥料栽培(有機栽培)でした。私たち元氣招会は、現実的にすぐできることは、無農薬あるいは低農薬、低化学肥料栽培でした。国の出先機関の食糧事務所から、その栽培法では認められないといわれ、それを認めてもらうのがまた大変なことでした。当時、国はお上そのもので、反論するのも大変でしたし、例え出先であっても、担当者から『ダメ』と言われるとそれでおしまいのような時代でした。それをひっくりかえすことができたのは、元氣招会代表の当農園2代目の今橋道夫が、早朝に聴いていた短波放送の番組でした。その番組では、農水省の特栽米制度担当者が制度の内容や適応範囲などをわかりやすく解説していたものでした。その番組の中で、担当者は、『特栽米は原則、無農薬無化学肥料栽培に限るが、現実的には、低農薬低化学肥料栽培も認められる』ということを強調していました。当時、有機栽培や無農薬栽培は今ほど普及しておらず、国はその現実を直視、実効性のある制度にしようとしていたのではないかと推察されます。このラジオ放送の内容を出先の担当者に伝えてからまもなく、晴れて、私たちも特別栽培米を始めることができた次第です。つくづく役所というところは固くて、面倒なところだけど、日々の勉強があれば、物怖じせずあたっていけば道は開けると実感したのを覚えています。

私たちへの風当たりと、協力してくれた農業技術者

とはいうものの消費者の皆様の絶大なご協力があって書類が整っても、無農薬栽培など、会の発足前年に1年間、実験的に行っただけで、大変な不安がありました。それぞれの耕作面積の一部の取り組みではありましたが、それでも失敗すると経営に穴をあけてしまいます。特に、通常の農法を行ってきた、それぞれのご両親の目は相当気になっていたと思います。かつて、お米は「食糧管理法(食管法)」で守られていて、お米は作れば全量国が買い取ってくれました。農家は、収量を上げれば上げるほど儲かったので、リスクを負うことを嫌っていたのが普通でした。特に、その制度に慣れ親しんでいた、年配の農家にとって、だまって国に従っていれば良いんだという空気は濃かったように思います。そのような方々からすると、私たちの取り組みは大いに疑問があったようです。ある人から、『あなた方が無農薬だとか言って米を売っているようだけど、俺たちが使う農薬で、あなたがたの米も消毒され、無農薬が成り立っているんだ。』とまで言われたものです。無理もありません。農業技術者も、無農薬栽培とかのノウハウは皆無といって良いものでしたから、私たちの行動は一般農家には無謀な冒険と見なされて当然だったかもしれません。
代表をしていた道夫は、このような風潮の中、『この取り組みは絶対に失敗はできない。何としても成功させよう。』と思っていました。幸い、農家の指導機関である、普及所(現普及センター)の所長経験者で、地元の峰延農協の技術指導者になっていたS氏が、私たちの取り組みに共感していただき、熱意ある応援をしていただきました。具体的には、『必要のない農薬なら削ることができるだろう。それを皆で、現場で勉強しよう。』ということで、会員の特栽米水田の生育調査と、重要な病害虫の発生を初期から調べ、どのような水準になったら防除が必要かを教えていただきました。その中で、たまたま設定してあった、化学肥料の10アール当たりの使用限度量以内では、病害に冒されることが極めて少ないこと、残りは害虫被害だけれど、壊滅的な被害は受けず、例え3等(国の検査があります)に入らなくても、お客様が納得してくれれば良いのではないかということがわかってきました。
しかし、地域の理解無しには、この取り組みを継続させることは困難です。当時は、北海道仁木町でリンゴ訴訟事件というのがありました。一般栽培をしているリンゴ農家が隣の無農薬リンゴ農家を裁判所に訴えたのでした。裁判の決着結果は、どうあれ、農家同士の関係には感情的なものが残ります。そんなことがあって、代表の道夫は『病気や害虫被害を出さず、一等米を造れば、地域も私たちの気持ちも消費者の皆様にもご迷惑をかけないのでは。』と考え、『例え無農薬栽培といえども、良質米を作ろう、そのための技術を探そう、無ければ創ろう!』と考えました。幸い、当時の熱心な仲間たちも同じ考え方で、一緒に様々なところに足を運び技術の習得に励んだものです。